南無妙法蓮華経

少し前の話になりますが、5月10日、11日の連休を利用して法華経信仰の聖地である日蓮宗総本山、山梨県の身延山久遠寺に行って参りました。ここは鎌倉時代の高僧であり、その生涯を法華経弘通に身命を捧げた、日蓮大聖人が晩年を過ごした終焉の地でもあります。(入滅されたのは東京の池上本門寺)。

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さてその法華経信仰の聖地である法華経とは何か?
わからないかたもいらっしゃると思うので簡単に説明させていただきます。法華経とは「妙法蓮華経」の略称であり、仏教の教祖であられる釈尊(お釈迦様)が説かれた教えを経典としてまとめたものであります。

サンスクリット語での原典名は「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」といい、それを直訳すると「サッ」が正しい、不思議な、優れたという意味。続く「ダルマ」が法。「プンダリーカ」が清浄な白い蓮華。「スートラが縦糸、経という意味です。即ち「正しい教えである白い蓮の花の経典」という意味であり、それを最初の三蔵法師である鳩摩羅什(くまらじゅう 344ー413)が「妙法蓮華経」と訳しました。因みに三蔵法師とは仏教の経、律、論の三蔵に精通した僧侶への敬称であり、「西遊記」で孫悟空の師匠として女優の故夏目雅子さんや、深津絵里さんが演じた「玄奘三蔵法師」(げんじょうさんぞうほうし602ー664)もそれら幾多の三蔵法師の1人であります。

さてこの妙法蓮華経、略して「法華経(ほけきょう)」は古くから「諸経の王」と呼ばれ、お釈迦様が説かれた八万四千ともいわれる様々な教えの中でも、最も優れた最高の真実の教えとされてきました。法華経信仰者が唱えるお題目「南無妙法蓮華経」とは、その真実の教えであり宇宙の真理でもある「妙法蓮華経」に南無する、即ち帰依しますという意味になります。いささか話が専門的になりすぎて何を言いたいのか?自分でもわからなくなってきました(苦笑)。

話を本題に戻したいと思います。さてその法華経信仰者である私も常々、聖地である身延山久遠寺に参拝したいと思っておりました。今回初めて機会とご縁をいただきその夢が叶ったのです。ですからその感想を素直に綴りたいのですが…ここまできて私の筆先はピタッと止まってしまいました。何をどう書いたら?どう表したら?この身延山久遠寺の素晴らしさをお伝えできるのか?わからないのです!!その素晴らしさや感動をとても文字や言葉で表現することはできません。それほどまでに素晴らしい体験をさせていただきました。

江戸時代の俳聖、松尾芭蕉が松島湾の絶景の素晴らしさに言葉を失い「松島や ああ松島や 松島や」と句を詠んだ伝説もありますが、私の体験もそれと似たようなことなのかもしれません。この地では久遠実成の仏である教主釈尊の啓示が、そして法華教弘通の大導師である日蓮大聖人の魂が息吹きが、時空を越えた存在、そして真理として甦るのです。何万年 何千年経とうとも、科学が発達し世の中がどんなに発展したとしても…太陽が東から昇って西に沈むように決して変わらぬ宇宙の真理がある。その宇宙の真理を、そして草木からアメーバなどの微生物や昆虫、動物達、我々人類までの全ての生命体、それらの総体が「妙法蓮華経」なのです。そう観じた私はただただ手を合わせ「南無妙法蓮華経」と唱えるのみでした。

この身延山久遠寺は冒頭にも記した通り「日蓮宗」の総本山であります。ですが私は日蓮宗の信徒ではありません。永遠の真理である法華経の信仰者ではありますが、日蓮宗とは異なる組織に在籍している者です。法華経を根本経典とし、日蓮大聖人を祖師としている宗派は数多くありますが、どこの宗派や組織であれ前提が同じであれば皆一様に「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えます。しかしながら経文の解釈や教義の違いで同じ「南無妙法蓮華経」を唱えながらも数々の流派に分かれているのが現状です。中には敵対関係にある組織同士もあります。宗祖のお廟があるこの身延山でさえ「あそこには日蓮大聖人の教えも魂もない」と敬遠する組織さえあります。実は私もそんな組織の一員なのでありますが…そんな私がなぜ身延山を訪れたのか?それは…自分の目で見て自分の魂で観じてみたいことがあったからです。感じるのではなく観じてみたかったのです。何を?もちろんそれは「妙法蓮華経」をです。 日蓮大聖人が晩年を過ごしたこの地で同じ光景を観てみたい。同じ空気を観じてみたい。そう思ったからです。ちょっと支離滅裂で何が何だかわからないかもしれませんね。

ただ私はこう思うのです。宗教や信仰というものは、私達が生きるこの三次元の世界の理論や理屈で解釈して理解できるものではない。神や仏の教えやその存在を含め、そういったものに人間界の浅はかな知恵や窮屈な理論・理屈を当てはめて考えるべきではない。もしそうして自分なりに解釈し理解したつもりになったとしても、その瞬間にその宗教や信仰は生命を失ってしまうのではないかと…理論上では法華経を含め全ての大乗経典は、お釈迦様の入滅後何百年も経た紀元前後に、当時の在家者たちが起こした「大乗仏教」の思想の元に編纂されたものであります。お釈迦様の直説ではないことは経典の研究の進んだ現代では明らかになっております。それらの理屈を当てはめると「最高の経典」と呼ばれる「法華経」でさえその存在意味をなくしてしまう。それでも私達法華経信仰者は「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えます。なぜか?

日蓮大聖人は「観心本尊抄」の中でこう述べられております。「釈尊の因行果得の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我らこの五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と…このご金言をどう受け取るか?「理」で受け取ることができるでしょうか?「信」を持って受け取るのが信仰というものではないでしょうか!!何よりも大切なのは「理」ではなく「信」です。「妙法蓮華経」は「理」の経典ではなく「信」の経典です。「信」があるからこそ信仰も宗教も生命力を持つのだと…私は身延山でそう観じました。実体験でも不思議なことがありました。朝五時半に本堂で行われる勤行に参列するために、私は雨の中の広い境内を場所もわからず右往左往していました。初めての参拝でどこへ行きどうすればよいのか?全くわからなかったのです。そこに突然、尼僧が現れ私を丁寧に案内して導いて下さいました。まさに法華経の守護神である観音様の化身のような方でした。身延山の頂上にある奥の院「思親閣」では、私はそこの僧侶に「自分は敵対関係にある組織の信者」であることを正直に伝えました。その僧侶はそんな私に「私たちは皆お釈迦様の子どもなのです。どの組織にいたとしても、お釈迦様と日蓮大聖人を信じて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えていれば大丈夫です。共に手を携えて仏道を歩んでいきましょう」と満面の笑みをもって諭して下さいました。お釈迦様も日蓮大聖人もご在世中に次のようなご金言を残しております。「人は生まれや育ち、そして地位や収入で貴くなるのではない。自らの行い、振舞いによって貴くも卑しくもなるのだ」と…まさにその教えを地で行くようなお二方との遭遇でした。その僧侶は一般の家庭に生まれ、違う信仰をしていたそうですが、法華経と出会い、様々な縁に導かれ日蓮宗の僧侶となったそうです。偶然にしろたまたまにしろこのブログを読んで下さった方々へお伝えしたいことがあります。これも何かのご縁かもしれません。機会がありましたら是非とも身延山久遠寺にお足を運んでみて下さい。そして「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えながらご自分の魂で観じてみて下さい。先に申し上げたように感じるのではなく「観じて」みるのです。きっと胸の奥底から涌き出てくる「本当の自分の魂の声」が聞こえてくると思いますよ。

最後に今回の旅で私が最も感銘を受けた身延山第90世法主、日勇上人のお言葉を写真と共に紹介させていただきます。…さぞ苦しいであろう さぞお困りであろう 死んだほうがましだと考える その心持ちもよくわかる だが、貴方よりもっと苦労しながら立ち上がった人がある。もっと困っていながら切り抜けた人がいる。絶望してはならない 人生には必ず活路がある。人を呪うよりも自分の在り方を反省することだ 人の幸福をうらやむよりも 自ら築くことに努めることだ。そして神仏には仕えるつもりで人々に奉仕すれば 人々を幸いにするとともに自分が幸いになる。善人は人から重んぜられ 正義は人から尊ばれる筈である。しかし善人なればこそ悪人に嫌われ 正義なればこそ不正の輩に却けられる 善人必ずしも重んぜられず 正義必ずしも尊ばれない。だが悪人にして栄えたためしなく 不正にして誉れを得たものはない。重んぜられずともよい 私は善人でありたい。尊ばれなくともよい 私は正義であることを欲する。

日勇上人のお言葉

南無妙法蓮華経  それではまた😄 😄

コメント

  • こんばんは

    以前コメント載せて頂きありがとうございます。

    私も、南妙法蓮華経の一員でありますが、最近は離れがちです。

    辞めたい訳ではありません。でも活動してません。私を一員にさせた方も無責任だと感じたからです。一員にさせたらさせたでほったらかしはどうかと…

    結局、自分自身が変われば自分も変わると言われますが、結局は自分自身が実証示して行動だと…一員にさせた方は言います。

    人間そう簡単には変われません。何の為にイチゴにさせたのか今は理由すらわかりません。

    ご回答していただけたら嬉しいです。



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