大黒様(だいこく様)

今日は😄 facebookを始めて以来、その楽しさや気軽さにすっかり没頭してしまい、お店のホームページのブログをしばらく置き去りにしておりました。今回本当に久しぶりに更新させていただきます。ブログはFbへの投稿記事に比べて、更に詳しく私の思想や観念的なものも記載しますので、どうしても長文になりがちで、文章がくどかったり堅苦しく感じられることもあろうかと思います。しかしながらブログに記載することは、私が体験して思ったことや感じたことを文章にすることで、お読みいただいた皆様の人生にも「何かお役に立てれば…」と願って記載するものです。余計なお世話かもしれませんが…縁があってこのブログにお繋がりいただいた皆様、どうか最後までお付き合い下さいませ。いつもとは頭のモードを切り替えて大真面目に記載させていただきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。

大古久天

 今回は以前Fb上でも少しだけ体験談を記載させていただきました七福神の1神であられます「大黒様(だいこくさま)」のことを書かせていただきます。特別に何の信仰を持たない方々も、大黒様のことはご存知であると思います。打出の小槌を手に握り、大きな袋を背負って満面の笑みを浮かべながら俵の上に立つそのお姿を、誰もがみんな一度や二度は拝見したことがあるかと思います。大黒様はそのお姿が示す通り、七福神の中でもとりわけ「福徳」や「財運」を授けてくださる神様として、一番人気でございますね。事業をされている方々は、商売繁盛会社の繁栄を祈願し、事務所やお店などにお祀りしているケースも多々ございます。もちろん私も商売人の端くれとして、かまだ家別館の祭壇に、その御尊像をお祀りさせていただいております。

 さてその福の神「大黒様」は、元々はインドのヒンドゥー教に起源を持つ神様であられます。ヒンドゥー教の最高神「シヴァ神」の化身として「マハー・カーラ」と呼ばれておりました。「マハー」とは偉大なるとか大いなるという意味であり、「カーラ」とは(暗黒)という意味であります。そのサンスクリット語での御名前を直訳して「大黒」と呼ばれるようになったのですね。この名が示すように元々の大黒様は、ヒンドゥー教に於いては現在の福神の姿とは全く異なる「憤怒相の鬼神」でありました。後に仏教にも取り込まれ仏法を守る「護法神」として信仰されていきます。その大黒様が福神に変わっていったのは、仏教が大陸から日本に渡来した折、我が国の福の神である「大国主命(オオクニヌシノミコト)」と同一の神様として習合して信仰されていったからだといわれています。その理由は名前が音読みで同じであること、(大国→ダイコク・大黒→ダイコク)。大きな袋をかついでいる大国主命と、金の袋を手にする大黒様の姿が相似していたことなどから、同一の神様として信仰されていきました。当時の日本人の大らかで懐の深い信仰形態が想像されます。因みに「大国主命」は縁結びのパワースポットとして有名な「出雲大社」の主祭神であられます。日本神話の「因幡の白兎」の中で、ワニ(鮫)に皮を剥がれて苦しんでいる白兎に「きれいな真水で身を洗いガマの穂綿にくるまりなさい」と教え救ってくださった心優しい医療の神様でもあられます。その優しき「大国様」と習合することで「大黒様」は現在の福神の姿へと変遷され、七福神の中の1神としても取り込まれていきました。七福神についてはまたの機会に記載させていただきますね。

 さて私は先日、縁あってその大黒様をお祀りしている「養源寺」に参拝させていただきました。鎌倉時代の高僧、日蓮大聖人御入滅の地として有名な、東京都大田区の池上本門寺の近くにある日蓮宗の寺院です。若く凛々しく神々しいオーラを身に纏ったご住職様が、とても親切にそして丁寧にお寺の由来を教えて下さいました。「養源寺」は江戸幕府の第八代将軍 徳川吉宗公が鷹狩りの際、「御膳所」とされていた由緒ある寺院だそうです。八代将軍吉宗?そう聞いて私がすぐに頭に思い浮かべたのは、松平健さんが演じるテレビドラマ「暴れん坊将軍」でした(苦笑)。不敬なことかもしれませんが、本物の徳川吉宗公を全く知らない私にとって、吉宗公は「暴れん坊将軍」であり、どんなに吉宗公に思いを馳せてみても、浮かび上がってくるのは松平健さんのお顔でした😊 そしてただ漠然とではありますが「へえ~あの暴れん坊将軍がここに来たんだ!?凄いなぁ~」などと松平健さんの顔をした吉宗公が、にこやかに笑いながら、こちらでお食事をされているお姿を頭に思い浮かべてみました。不思議と歴史の息吹を肌に感じたような気がしました。次に本堂に上がり祈祷本尊の「大黒様」を拝させていただきました。満面の笑みを浮かべる大きな大黒様です。しかも私が大黒様を拝する位置を変えると、その都度ごとにその笑顔も変わっていきます。本当に不思議な大黒様です。大黒様から発せられるパワーというかエネルギーというのか?その波動みたいなものは、とても言葉では表現できない「凄さ」を感じました。意味がわからないかもしれませんね!?ごめんなさい。本当にただ「凄い!」としか表現できないのです。機会がありましたら是非とも養源寺へ足を運び、直接ご自身の目で大黒様を拝してみて下さい。私の言っている意味がよくわかっていただけることと思います。
 
 こちらの大黒様は「大古久天」と脇に記載されておりました。その由縁をご住職にお聞きしてみました。私の愚問にご住職様は丁寧にお答えくださいました。以下はご住職様の説明でございます。…「大黒様は漢字では通常(大黒)とお書きしますが、古くは(大古久)若しくは(大去垢)とお書きしていました。(大古久)とは大きく古ゆかしく久みのある仏様という意味で、お釈迦様のことを指しています。これは仏教の開祖であるお釈迦様を、現代の人々の記憶の中から思い浮かべることは難しいことですが、大古久様のお姿を拝することにより、お釈迦様の言いたかったこと、成し遂げたかったことが理解できるようにという意味で(大古久)とお書きするのです。」…難しいようですがこの説明が私にはよく解りました。何故ならそれは先ほど私が申し上げた「徳川吉宗公」と松平健さんの「暴れん坊将軍」のことがあったからです。現在の平成の世に生きる私達には江戸時代の「徳川吉宗公」という実際の将軍像を想像することはとても困難なことです。何しろ会ったことも見たこともないのですから!けれど松平健さんが演じる「暴れん坊将軍」を介在することで、吉宗公のことを「正義感に燃える強く優しい、そしてちょっとお茶目な魅力ある将軍様だったんだなぁ」と思い巡らすことができます。それと同じように仏教の開祖お釈迦様についても…例えばお釈迦様の仏像を拝して「尊い存在だ」とか「本当にありがたい」などと思うことができるでしょうか?そう思うことができる人は、かなり修行が進んだ霊性の高い人だと思います。でも私も含めて多くの人々はそこまで感じ取ることはできないのではないでしょうか?そこで大黒様を拝してみると…打ち出の小槌を持ち、福徳をいっぱいに詰め込んだ袋を背負い、金の俵の上に立つ。そのお姿を拝するだけで福徳を授けていただけるような気持ちになり、心にありがたさや感謝の念が浮かんできませんか?ちょっと回りくどい説明になりましたが…そのように大古久様を拝することでお釈迦様の真髄を観じ取る…ご住職様はきっとそのようなことをご説明くださったのだと思います。次の(大去垢)という書き方についてのご住職の説明です。…「大去垢とは、心身の不調や病は因縁から生じるものであり、それらを生み出すのは私達の心の垢(あか)からくるものだと考えられます。心の垢とは仏教では(罪障)という言葉に当てはまり、私達は常に心の垢を取り除く修行が必要であるということです。そういった意味に於いて(大黒様)のことを(大去垢)と書くこともあります。」…なるほど?これは深いと思いました。心の垢が去るという意味で「大去垢」と書いたりもするのですね!続けてご住職様はこう説明されました。「最初の(大古久)を天。次の(大去垢)を地。そして通常いわれる(大黒)を人と表し、この天・地・人をしっかりと意識の中に留め祈り、日々の生活をすることで幸せを手に入れることができるのです。」「人それぞれ色々な悩みや苦しみがあると思いますが、逆にそういったことがあるからこそ人間なのであり、よくよく考えてみると有り難いことなのではないか?と気づくことがあります。」「しかしながら邪見や邪心に浸されてしまった心身で、正しいものの見方、考え方はできません。お釈迦様の説かれた法華経とはそういった邪毒を取り除く心の良薬なのです。

蓮の花

 法華経には心の毒を最小限に抑える功徳力があります。」…法華経…そう私はその法華経の信仰をしている1人の凡夫であります。法華経とは「妙法蓮華経」の略語であり、お釈迦様が晩年に7年かけて弟子達に説いた、究極の教えといわれております。「その法華経の功徳を、鎌倉時代の日蓮大聖人は南無妙法蓮華経のお題目に集約されたのです。南無妙法蓮華経のお題目には法華経の功徳が全て込められております。そう理解して大古久様にお題目を唱え祈ることで、更に福運が倍増されていくことと思われます。」…ご住職様のお話しは難しくて、修行の進んでいない凡夫の私には、よく理解できない部分もありました。しかしながら、大変ありがたいお話しをお聞きし、貴重な体験ができたことは理解できております。如何でしょうか?普段何気なく拝している大黒様には、これだけ深い意味や謂(いわれ)があるのです!そう考えると仏教、或いは悟りというものは深く遠く難しい真理であって、私達にとって「縁遠いもの…」という感覚に陥りがちですが…真言宗の開祖、弘法大師空海はこう言っております。「仏法遥かにあらず。心中にして即ち近し」と…このお言葉は、神や仏というものは遥か遠くに存在しているのではない。私達自身の心の中に存在しているのだと教えておられるのだと思います。人は誰であれ皆、心の中に「神仏」の光を宿しているのです。ただそのことに気づいていないだけであって…ちょっとミステリアスで訳のわからないお話しをしてしまいましたが、私達の心の中には「神仏」が存在しているんだ!宿っているんだ!そう思うだけでも、何だか救われたような気持ちになることができる気がします。私は法華経の信仰者なので、その法華経を所依の経典とする日蓮宗の信徒でもあります。その私が先ほど、異なる宗派である真言宗の空海様のお言葉を引用させていただきました。それは私自身がかつて、実際に様々な迷いや悩み、苦しみを持ち、それを解決するために、浅学ながら他の宗派の勉強をした経験があるからなのですが…他宗派の教えを勉強することで気づいたことがありました。それは「他宗の教えも日本の神社神道も、どの教えも全て素晴らしい!そして日蓮宗の教えもやっぱり本当に素晴らしい!」ということでありました。理屈でそう思ったのではなく観念として強くそう感じたのです。それは私が信仰というものに対して形成してきた考え方や思いは、様々なご縁によりお会いしてきた方々から教えていただいたことを、更に自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の肌で触れて、自分の頭で考え、体験を通じて会得してきたことであるからです。だから理屈ではないのです。私は神仏を信仰しているのであって理屈を信仰しているわけではありません。何よりも…現在の私は幸せです。もちろん様々な悩みや苦労が尽きることはありませんが、日蓮宗の信仰をしてから私は真に幸せを感じることができるようになりました。「大古久様は私達に福徳を授けるために打出の小槌で私達をコツコツと叩きます。コツコツと努力をしていると苦労が生じます。その苦労から私達を救うために大きな袋(不苦労)を担いでいます。そしてどんな時も、にこやかに笑っていなさいと満面の笑みを浮かべて私達に教えてくださっているのです(養源寺 菅原上人)」…最後まで御拝読いただき誠にありがとうございます。

 皆様にたくさんの幸運が訪れますように🍀 いのちに合掌🙏 南無妙法蓮華経🌞 それではまた😄😄

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