青春の1ページ 2

私の転居先は横浜に住む姉の所です。姉は3人目の子供を身ごもっていましたが、やはり母が亡くなったことがショックだったのでしょう…
つわりや貧血も酷く2人の子供と家事、運送業をしていた義兄とその仲間の食事や世話をしていたのですが、その仕事もままならないと言うので、私は母が生きていたら、きっと飛んで行ったんだろうなぁと思い、母の代わりとはほど遠いでしょうが姉の役に立ち、更に、痛みを分かち合いながら、私の新しい道が見つかれば…との思いもありましたので、今の心の痛みをわかってくれる人の側で自分が何処かへ逝ってしまわないように自分を必要として求めてくれる所で自分を取り戻したかったのだと思います。
毎朝作る義兄とその仲間のお弁当、夕飯の支度、少しも目が離せない2人のいたずらっ子の面倒で姉の大変さがよくわかりました。
あどけなく、可愛い子供達と過ごしていると、いつしか悲しみも癒やされ、穏やかさを取り戻してきました。

あっという間に半年が過ぎた頃です。以前勤めていたレストランの友人から連絡があり、「人手不足で困っている。オーナーがミー子を探して戻って来てもらえないだろうか?と相談されて」…と。
姉の体調も善くなって来ていたので姉達と相談して足利へ戻ることになりました。しかし、そこには止めどもなく波乱万丈の人生が待っていたのです。
生涯をかけて信仰する法華経とのご縁、夫との出会い、結婚、出産、かまだ家の創業、夫の浮気、DV、大病、40代前半に自身を襲った癌との戦いと生還、姑との問題…様々な困難にぶつかるのですが、それはまたの機会にお話し出来ればと思っております。
ただ、そういった様々な困難を乗り越えて今も私はこうして生きている。それはこの時の経験が私の基礎になってくれたからだと思っています。
小さな企業ではありますが経営者となった今もそれが変わることはありません。社員を思って叱ることがあっても決して怒ってはいけないのだということも忘れないようにしております。
でも理屈ではわかっていても実践することはなかなか難しい。ですから私は社員が失敗しても叱ることよりも励ますように心がけております。常に自分との葛藤の日々です。
そんな私が怒ってしまった時…今でも彼の声はしっかりと私の胸に聞こえてきます。「ミー子、怒っちゃいけないよ」と…

ただひとつ残念なのは、思い出の中の彼はいつまでも若いままなのに…私は年々老いていきます。「今の私を見たらどう思うだろうか?私だとわかってくれるかな?」なんて思う時もあり、そんなことを考える自分がおかしくて一人で笑ってしまうことがあります。
そしてそんな時も彼の声が聞こえてきます「そう!それでいいよ、いつも笑顔でいような!」と…
悲しいことも今では笑顔で思い出せる自分になりました。「勇君、ありがとう私はこれからも笑顔を忘れずに生きていくからね」

笑顔の大切さを教えてくれた母と勇君…今の私にできること、それは一人でも多くの方に笑顔になって頂きたい。その第一歩を「まんまる笑顔の輪」で広げていけたら…と思います。

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